福島稲荷神社(福島)
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◆ 狛犬:脇参道に一対。奉献年:大正7年11月、石工名:未確認。撮影:'07/03/02
前回対面した時は夕方だったため、白昼に対面したいと思って今回の参詣となった。画一的とされている岡崎型ではあるが、堂々とした体躯で迫力を感じさせる。大正13年に開設された「兎月園」内の神社に置かれていたとされるが、奉献年が大正7年であることから元々この地に鎮座していた神社に置かれていたのかもしれない。
◆ 鎮座地:東京都練馬区旭町3-17
「兎月園」は出世稲荷神社の2、300m東にあったようであるから、「兎月園」閉園(時期不明)後に狛犬も移設されたのであろう。
社殿は、神弧が置かれた本参道(写真左)と狛犬が置かれた脇参道(写真右)とが合流した境内に設けられている。
◆ ご由緒:練馬区教育委員会の案内板による(写真)。
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◆ 3対の狛犬。[撮影:'07/03/02] |
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| ◆ 社殿前の狛犬。吽形の右前肢のポーズに注目されたい。[撮影:'06/10/28] 奉献年:安永九庚子歳十一月吉日。石工名:未確認(但し、吽形の台座裏面に 「仕手 茂兵衛」の刻銘あり)。 [参考]安永九年は西暦1780年。前年の安永八年に平賀源内が亡くなっている。 | |
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| ◆ 関連サイト:軽音楽談話室 [こちらのサイトの写真を拝見して実物と対面したくなった] ◆ 鎮座地:茨城県龍ヶ崎市上町4279 ◆ ご由緒:境内のご由緒碑より。 『鎮守八坂神社由緒 当社の主祭神は建速須佐之男神と申し水を主宰する神国土開発の神として、 私達の祖先に農耕、商工運輸交通の産業のみちを授け、又人に仇なす悪事 災難を取除き守護して下さる神さまとして、文治年間(約八百年前)竜ヶ崎開拓の 創め産土の神として根町中央に祀り神威あらたかく、幾多住民の苦難を救い 遠近の信仰を衆め町の発展と共に天正五年竜ヶ崎の中央に当たるこの地に 御遷宮になり、今や四百年、御神徳愈々輝き竜ヶ崎市の鎮守として、心の 拠り所となってゐる 例大祭 一月元旦 二月十七日 十月十七日 祇園祭 七月二十五日より二十七日 ツク舞神事、神馬、獅子舞行事あり 』 | |
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| ◆ 社殿前の岡崎型狛犬。[撮影:'06/10/15] 奉献年:昭和五十四年二月吉日。石工名:未確認。 | |
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| ◆ 一の鳥居前の岡崎型狛犬(子取・玉取)。[撮影:'06/10/15] 奉献年:平成十二年七月吉日。石工名:未確認。 宗任神社御鎮座八九〇年祭記念。 | |
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| ◆ 関連サイト:茨城県神社庁>県内神社のご紹介>宗任神社 ◆ 鎮座地:茨城県下妻市本宗道89 | |
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| ◆ 社殿前の狛犬(籠神社型?)。[撮影:'06/10/14] 奉献年・石工名は未確認。 | |
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◆ 曽我神社(境内社)社殿前の江戸型狛犬(子取・玉取)。[撮影:'06/10/14] | |
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| ◆ 箱根神社(上左)と曽我神社(上右)。 ◆ 関連サイト: 神奈川県神社庁>詳細検索 ◆ 鎮座地: 神奈川県足柄下郡箱根町元箱根80-1 |
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◆境内の「氷川神社略記」碑によると
『御由緒
建速須佐之男命を主神としておまつりし、古い時代から今日にいたるまで、池袋村の鎮守、氏神さまとして、この土地に住む代々の人々の守り神として崇敬されてきました。
埼玉県大宮市鎮座の氷川神社(武蔵国一之宮 平安時代の延喜式神名帳所載の官幣大社)から分かれた神社とも言われています。
池袋の名は、今から四百三十年前の室町時代、永禄二年(西暦1559年)の「小田原衆所領役帳」に「武州豊島郡池袋村」と書かれ、当区内の長崎、菅面(巣鴨)、駒込、雑司谷、高田とともに、すでに村が形成されていたことが記録されています。
天保元年(1830年)の「新編武蔵風土記稿」の池袋村の条に「氷川社 村ノ鎮守」の記述があります。 昭和の大戦に際して、東京大空襲の災禍にあいましたが、氏子中の一致協力により、戦後の混乱下にもかかわらず御復興を成し遂げました。
現在の御社殿は、昭和四十年の御造営氏子総奉賛事業として竣功した、戦後二度目の建築です。
当神社の境内から、およそ三千五百年前の縄文時代後期に使用されたと推定される土器片が発掘採集されています。また、明治時代に境内から谷端川にいたる、付近一帯から発見された貝塚は「池袋村貝塚」として知られ、曲玉、管玉、土偶なども出土しています。この土地で生活した古代人の様子がうかがえますが、これは豊島区歴史年表の最初の項目を記すものです。』
◆鳥居脇の狛犬は玉取り・子取りの獅子型。奉献年は「昭和四十年吉日」、石工名は未確認。
境内社前の狛犬は蹲踞の姿勢の江戸型。奉献年は「明治三十九年二月吉日」、石工名は未確認。
◆初対面 '04/11/21
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◆板橋区教育委員会による説明板
『氷川神社
当社の御祭神は、須佐之男命、奇稲田姫命の二柱を奉祀する。
もと蓮沼村前沼の丸池の沼畔に鎮座してあった。新編武蔵風土記稿(文政十一年)に「氷川社三、一は村の鎮守、一は蓮沼・根葉二村の鎮守、共に南蔵院持、一は金剛院持」とある。明治三十三年に当時の上蓮沼村と根葉村が合併し蓮根村ができ、村の鎮守となった。大正十三年現在地にうつり、昭和四十四年、鉄筋流れ造の現社殿が完成した。
境内には、末社御嶽神社、稲荷社が祀られ、また古い石祠が残っている。
平成二年三月』
◆社殿前の狛犬は蹲踞の姿勢の江戸型。奉献年は「昭和10(1935)年9月」。石工名は未確認。
富士塚中腹の狛犬(玉取りのみ)は江戸型。奉献年、石工名は未確認。
◆初対面 '06/03/26
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◆練馬区教育委員会による説明板
『氷川神社
当社の創立年月日は定かではありませんが、武蔵国一の宮氷川神社への崇敬の念から勧請したもので、明治維新におよび、村民はここを当村(橋戸村)の鎮守と定め、明治七年(1874)に村社となりました。
祭神は素戔嗚尊、大己貴命、稲田姫命で、相殿に愛宕神社(祭神・香具槌命、火産霊命)、境内社に稲荷神社、白山神社、弁天社、御嶽神社があります。
明治十三年(1880)社殿の改築が行われましたが、社殿の老朽化に伴い、昭和五十年にいたり鉄筋コンクリート造り、銅板葺・流造に改築されました。
稲荷神社は江戸時代、橋戸村に所領をもっていた伊賀組衆の守護神として祀られていましたが、明治維新後、村民に下げ渡されました。もと村内愛宕社にあったといいます。
稲荷神社の鳥居右手に嘉永二年(1849)伊賀組衆百八名が奉納した御手洗石があります。それには天正十八年(1590)徳川家康の入府に従って、江戸周辺に給地を賜った伊賀衆の由緒が漢文で刻まれています。同時に奉納した石鳥居は破損して境内に保存されています。
境内にはそのほか昭和七年市域合併記念の石灯籠や荘民由緒碑があります。
当社は南に白子川を望む丘陵に位置し、四季を通じて深い緑につつまれています。
昭和六十一年三月
練馬区教育委員会』
◆社殿前の狛犬は蹲踞の姿勢の岡崎型。奉献年、石工など未確認。
◆初対面 '06/01/15
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◆練馬区教育委員会による説明板
『氷川神社
当社は「大松の氷川様」といわれてきました。大松とは下練馬村の小字の名です。
祭神は建速須佐乃男命です。境内社に御嶽神社(日本武尊)、富士神社(木之花開邪姫命)、稲荷神社(保食神)、白山神社(伊邪那美命)などがあります。
さらに、この神社の特徴として参道脇に富士塚があります。江戸時代中頃から、江戸を中心に盛行した、富士信仰の丸吉講によって築かれたものです。頂上の石宮は天保六年(1835)再建、塚中腹の御手洗石は同九年(1838)再建と刻まれていますから、それ以前の築造であることにちがいありません。ほかに明治・大正時代の富士登山記念碑などがあります。ちなみに、鈴原神社の碑は富士山一合目にある同神社の登拝記念に建てたものです。これらの境内社や石造物から、当社は江戸時代より練馬近在の富士講・御嶽講など民間信仰の中心であったことがうかがわれます。
昭和六十一年三月
練馬区教育委員会』
◆社殿前の狛犬は蹲踞の姿勢の江戸型。奉献年、石工など未確認。
◆初対面 '05/11/05
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当社の祭神は国常立尊(くにとこたちのみこと)・大己貴命(おおなむちのみこと)・少彦名命(すくなひこなのみこと)の三神で、木曽御嶽神社の分霊を勧請したものです。
新たな道が開けて木祖御嶽山への登拝が容易になったのは、天明(1781〜)の頃からといいます。その後、江戸を中心に御嶽講をまとめ、信仰を広めたのは一山行者です。その一山行者を講祖に祭る一山社が境内にあります。また明治十一年当社を創いた小沢林蔵君碑、及び氏を初代とする一山講先達の碑もあります。
むかし、ここから約一五〇メートル北、富士街道沿いに高松寺という真言宗の寺がありました。明治初年廃寺となり、墓地は愛染院に合併され、本尊の薬師如来はその時当地に移されました。御嶽神社・薬師如来記念碑は神仏分離後のものとして珍しいものです。
鳥居脇の石仁王二体は宝永三年(1706)伊賀忍者の頭領服部半蔵が高松寺へ寄進したものです。背面に半蔵の銘が見えます。伊賀衆は、幕末まで橋戸村(現在の大泉町)を領地としていました。当地は江戸屋敷(四谷伊賀町)と領地橋戸村との往還にあたっていました。
昭和六十年三月』
◆社殿前の狛犬は蹲踞の姿勢の江戸型。奉献年は「明治三十九年十一月」、石工名は「上戸田村 石工 榎本九一郎」。
◆初対面 '05/09/26
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石神井神社の由来は古く詳らかではありませんが、四神地名録・新編武蔵風土記稿など江戸の地誌には「石神の神社と号せる僅なる小社有り。神体は石にて神代より以前の石剣なり」とあります。石剣は付近の井を掘った折、地中から出たものとなっておりますが、三宝寺池から出現したとする記録もあります。いずれにしてもこの『石神の井』が石神井の地名の起りとなったと思われます。
本社の祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと)でありますが、石剣もまた本殿の奥深く御神体として奉祀されております。境内末社には稲荷神社があります。
拝殿内には明治初期以降の大絵馬十数枚が奉納されています。保存が大変良く、破損や彩色の剥落は殆どありません。江戸時代からつづいた中野の絵馬屋、鎌田東渓の作品二点があります。
昭和五十八年三月』
◆社殿前の狛犬は玉取り・子取りの岡崎型。奉献年、石工名は未確認。
◆境内脇の狛犬(写真・2段目)は、玉取り・子取りの江戸型。奉献年、石工名は未確認。これが先任の社殿前狛犬と思われる。
◆初対面 '05/09/23
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本社は旧中新井村(現在の豊玉地区)の鎮守で、祭神は素戔嗚命(すさのおのみこと)です。境内末社に北野、須賀、稲荷、三峯の各社があります。
社伝によると、主神は北野神社が最も古く、次いで須賀神社、その後大宮一宮の分霊を勧請して氷川神社を主神にしたといいます。すでに江戸時代の『新編武蔵風土記稿』には、「氷川社」の記載があります。
境内南西側の旧神楽殿は、元氷川神社の拝殿で、文化八年(1812)の棟札があります。この建物は釘を一切使わない、組込式の建築技法を用いています。
古い土地の人は、須賀神社を「天王さま」と呼びます。天王様の祭礼は、昔は旧暦六月十五日でしたが、この祭には文化十年作と伝える御輿の渡御があります。田んぼの中を暴れ廻るというので「中新井天王さまの暴れ御輿」と近郷近在で有名でした。今も九月の祭礼には変わらぬ姿で、往時を偲ばせます。
昭和五十九年三月』
◆社殿前の狛犬は蹲踞の姿勢の江戸型。奉献年は「大正十五年二月」、石工名は未確認。どなたかの「還暦記念」のようだ。
◆境内社「三峯神社」の前の狛犬(写真・2段目)は、狼型。奉献年は「大正十五年五月十五日」、石工名は未確認。
◆初対面 '05/08/05
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◆板橋区教育委員会による説明板
『氷川神社
御祭神素戔嗚命(すさのおのみこと)
創建年代は不明であるが、社伝によると応永年間(1394〜1427)に大宮氷川神社から勧請されたと伝えられている。当社は松山氷川大名神と称し、旧根村、板橋宿上宿の産土神として崇敬された。
相殿として祀られている蒼稲魂命(うかのみたまのみこと)は、もと下板橋宿稲荷台の新堀山に鎮座していた新堀稲荷社で、板橋城廃城後、太田道灌の家臣新堀氏がこの地で奉斉したもの。下って、明治四〇年合祀令によって氷川神社に合祀された。
平成七年二月』
◆社殿前の狛犬は蹲踞の姿勢の江戸型。奉献年は「嘉永五年(*)六月吉日」[(*)1852年]。石工名は未確認。
参道脇の狛犬は蹲踞の姿勢の岡崎型。奉献年、石工名は未確認。
◆初対面 '05/12/29
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◆板橋区教育委員会による説明板
『氷川神社
御祭神素戔男命(すさのおのみこと)、稲田姫命(いなだひめのみこと)
創建は第八十三代土御門天皇の元久三(1206)年頃、この辺りの領主豊島左衛門尉常泰が武蔵国一の宮氷川神社(現大宮市)から御分霊を、石神井河畔の景勝の地である当地に勧請したのに始まると伝えられる。
江戸時代は板橋宿の鎮守として広く信仰を集め、今日に至っている。
当社は明治二十二年に火災にあい、文書や社宝などを消失した。社殿は翌年再建されたが、昭和二十年四月十三日の空襲により再び消失した。戦後昭和二十九年に御造営奉賛会が結成され、昭和三十二年に現在の社殿が竣工した。
平成六年三月』
◆境内の狛犬は、蹲踞の姿勢の江戸型。奉献年は「弘化二年(*)四月吉日」[(*)1845年]。石工名は「小石川西富坂町 石工高木○○作」と読める。
境内社「天祖神社」前の狛犬は、蹲踞の姿勢の江戸型。奉献年は「安政六年(*)十一月吉祥日」[(*)1859年]。石工名は未確認。
◆初対面 '05/12/29
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◆板橋区教育委員会による説明板
『御祭神 国之常立神(くにのとこたちのかみ)
他一六柱
当社は、康平年間(1058〜1065)、源頼家の勧請と伝えられます。江戸時代には、十二天社と呼ばれ、小豆沢村の鎮守でした。
小豆沢の地名の由来については、
一、平将門の時代、神社の台地下の入江(荒川の昔の河道)に停泊中の船が嵐に
遭い、小豆を積んだ袋を流失した。
二、上流から漂着した米を腐らないうちにと食べたことを、裁判で評価され、祝いの
小豆飯を炊いた。
という二つの故事が残ります。現在では、後者の故実に因み、毎年六月一五日に餅つき祭が執り行われています。
明治二年(1869)、社号を小豆沢神社に改め現在に至っています。
二の鳥居脇の「ズダジイ」は、当社の御神木です。南の道路側へやや傾斜し、幹の内部が空洞化していますが、樹勢は良好です。天然記念物として、平成六年度、区の記念物に登録されました。
平成九年三月』
◆社殿前の狛犬は蹲踞の姿勢の岡崎型。奉献年は「昭和43年10月5日」、石工名は未確認。
境内前の狛犬は玉取り・子取りの江戸型。奉献年は「大正4年3月」、石工名は未確認。
◆初対面 '05/06/18
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◆板橋区教育委員会による説明板
『創建年代は不詳。旧上板橋村栗原(現・桜川の一部)・七軒屋(現上板橋)の氏神として、倭建命(やまとたけるのみこと)・金山毘賣命(かなやまひめのみこと)を祭神とする。
栗原の地は、康生二(1456)年、太田道灌が千代田村(現・皇居)に江戸城を築く際、同村宝田村の住民を移動させたところとされ、この時村内に祀ってあった稲荷(現・宝田稲荷)もこの地に遷座させたという伝承もあって、往古より開けた土地柄であった。
当神社もその頃、信州の御嶽山(一説には甲州)を勧請したと伝えられる。境内にある嘉永七(1854)年銘の狼型狛犬は、山岳信仰を伝えるもので、同型のものとしては都内でも有数の古さを誇っている。
毎年三月八日に行われる毘謝祭には、強飯式の面影を残す大盛飯の膳、大根で作った鶴亀(逢来山)を神前に供える風習が残されている。
平成四年三月』
◆写真一段目は昭和35年銘、二段目は昭和61年銘の狼型狛犬、石工名は未確認。
写真三段目は、「説明板」にある嘉永七年銘の狼型狛犬、石工名は未確認。
写真四段目は、境内社前の江戸型狛犬。年銘、石工名は未確認。
◆初対面 '05/04/23
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◆昭和7年3月、氷川神社(赤塚)から分社されたと伝えられる。
◆社殿前の狛犬はブロンズ製。奉献年、制作者など未確認。
◆初対面 '04/10/23
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◆板橋区教育委員会による説明板
『御祭神建御名方神。
創建年代は不詳であるが、赤塚の領主千葉介自胤が、長禄年間(1457〜60)に信濃国(現長野県)の諏訪大社を勧請し、武運長久を祈願したと伝えられる。その後寛永七(1630)年頃に十羅刹女を配祀したが、神仏分離の際これを廃した。
江戸時代の江戸名所図絵には、「田遊び」神事が記載されている。田遊びは、水田耕作にかかわる神事で、年の始めにあたりその年の五穀豊穣と子孫繁栄を祈る「予祝」の祭りである。毎年二月十三日(旧暦の正月十三日)の夜に行われ、本殿と大鳥居間の朝輿の渡御の後、社前に設けた「もがり」の中で一年間の農耕行事が所作と唱言によって象徴的に演じられている。
昭和五十一年に徳丸北野神社の田遊びとともに国の重要無形民俗文化財に指定された。
平成六年三月』
◆参道脇の狛犬は蹲踞の姿勢の江戸型。奉献年は「明治十五壬午年四月吉日」と読める。石工名は未確認。
境内社前の狛犬は蹲踞の姿勢の江戸型。奉献年、石工名は未確認。
◆初対面 '04/10/23
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◆板橋区教育委員会による説明板
『旧上赤塚町一帯の鎮守である。改築前の社殿は区内に類を見ない古風な様式をとどめていた。祭神は素戔嗚命と藤原広継命である。藤原広継命は奈良時代に政権争いから九州へ追いやられ、太宰府で反乱を起こしたが、朝廷軍に捕らえられて処刑された薄幸の貴族である。
朝廷ではその怨霊のたたりをおそれて神として祀ったが、いかなる理由で当社にまつられたかは不明である。
境内の朱塗りの厳島型鳥居も珍しく、また一の鳥居までの欅並木の参道も見事なものであり、その巨木は当社の歴史の古さをものがたっている。この他にも人造富士、白山社、疱瘡神の祠など見るべきものが多々残されているが、春に満開となった時の桜並木は特に美しい。
また、かつて行われていた「田遊び」の名残が留められている。
平成五年二月』
◆社殿前の狛犬は玉取・子取の江戸型。奉献年、石工名は未確認。
境内社前の狛犬は蹲踞の姿勢の江戸型。台座裏に「明治三十五年六月建之 東京石工 酒井八右衛門」の銘あり。
◆初対面 '04/10/23
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◆板橋区教育委員会による説明板
『当社は古来大谷口村の鎮守で、速須佐之男命、大雷命、木花佐久夜姫命を御祭神としている。
延宝二(1674)年の御水帳に、「末社浅間社の御除地当村の内に二十四坪」と記され、同様に末社稲荷社、鳴社、鹿島社、須賀社についても記載されている。このことから当社は延宝年間には既に創建されていたことが明らかである。
古くから大谷口村民の信仰をあつめ、毎年一月十九日には稲荷毘射、氷川毘射の神事が行われている。 平成五年二月』
◆鳥居脇の狛犬は蹲踞の姿勢の岡崎型。奉献年、石工名は未確認。
社殿前の狛犬は蹲踞の姿勢の江戸型。台座裏に「天保十一庚子年八月吉日 小石川御箪笥町 石工 笹右エ門」の銘あり。(天保十一年=1840年)
◆初対面 '04/06/19
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◆板橋区教育委員会による説明板
『御祭神はその名のとおり菅原道真公を奉祀する。
創建年代は不詳であるが、旧成増村の鎮守にして、明治七年四月に旧社格「村社」が与えられた。江戸時代には青蓮寺が別当となっていた。
幕府編さんの地誌新編武蔵風土記稿には「山王社」、境内にある延宝七(1679)年銘の区内最古の手水鉢には「自在天神」、さらに明治二年の「社寺取調下案に「天神社」とある。このことから当社は、社号(神社名)がしばしば変更されていたようである。
本殿は明治十七年八月に氏子の寄付金によって再建され、大正年間には拝殿が新築されている。 平成三年七月』
◆社殿前の狛犬は蹲踞の姿勢の岡崎型。奉献年、石工名は未確認。
◆初対面 '04/02/28
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◆もと神明宮と称していたが、明治5年に改称。境内に田柄用水(明治4年開通)記念碑あり。
◆参道脇の狛犬は玉取り・子取りの江戸型。奉献年は「昭和42(1967)年1月」、石工は「内海喜六」。
名工内海喜六による北野・八幡神社の狛犬の前年の作品。
◆初対面 '04/12/03
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